映画鑑賞

【映画脚本考察】ダークナイト

こんにちは!たかやんです!

今回は僕の趣味である映画脚本の考察記事を書いていこうと思います!
記念すべき第1回の作品は

ダークナイト

です!
クリストファー・ノーラン監督のバットマン三部作の2作目ですね。

ぼくはこの『ダークナイト』と、そのスピンオフである『ジョーカー』が大好きなので
初回の記事に本作を選びました。

この記事では視聴を前提にした脚本考察をしていくので、ネタバレ等一切配慮ありません。
現在AmazonprimeとUnextで視聴できるので、登録していていま暇だな~って人はご覧になってからこの記事を読んでくださいね。

社会はいかにして回っているのか ートマス・ホッブズの考察ー


(ホッブズの著書『リヴァイアサン』の表紙)
みなさん、ホッブズを覚えていますか?
多くの人は高校生のころに倫理や世界史で習ったと思います。
本作『ダークナイト』は、ホッブズ的な思想がその根底にあると筆者は考えているので、簡単にホッブズの議論を紹介しておきますね。

ホッブズはまず、人間には自分の生命を保存する権利があることを議論の前提にします。
これを自然権と呼びます。

法や倫理のない世界では、人間は生きるために自然権を好き放題に行使したとホッブズは考えます。
例えば、人を殺したりだましたりして食料や土地を奪ったり。
この状態を、ホッブズは万人闘争と呼びました。

しかし、この状態にあっては人はいつまでも心穏やかに暮らすことはできません。
人を信じることができないので、取引を通して生活を豊かにしたり、経済を発展させることもできません。
経済活動は、『相手が自分をだまさない』という暗黙の了解が前提にありますからね。

そこで、人々は自分の自然権を放棄し、法に従って生きることを選びます。
自然権を放棄するとは、自分が生きるために人に危害を加えたり、人をだまさないということです。
それと同時に、人は法の支配を受け入れます。
自然権を放棄したと言っても、実際のところ本当かなんてわかりませんよね笑
すれ違ったおじさんに突然殴られ、財布を奪われるかもしれない。

そこで、法によって〇〇という行為には罰を与えると定め、暴力などの『自分のために人に危害を加える行為』を罰によって強制的に制限したのです。
法とは、自然権の放棄を文章として目に見える形にし、破れば制裁を与えることを通して遵守させるものです。

私たちは、知らない人が作った野菜やお肉を食べますが、それってとても不思議なことですよね。
毒が入っているかもしれないのに、野菜やお肉には害がないと信じ切っている。
それは、その知らない人が『法に従って生きている』と信じているからです。

法にはこのように、見ず知らずの人の間に暗黙の信頼を生み出す機能があるのです。
そうして生まれた信頼の上に、人間は共同生活を営み、協力関係を築き、自身の生活を豊かにしています。

ここまでがホッブズの議論です。
きちんと勉強された方からは突っ込みどころ満載な気もしますが、ダイジェストだと思って大目に見てください笑

秩序とはなんぞや

秩序という言葉、説明しずらいですよね。

秩序とは、
人間社会が望ましい状態を保つためのきまりごと
という意味です。

先ほどのホッブズの議論はすなわち、
『暴力や利己的なふるまいの少ない社会』
はいかにして生じ、保たれているのかに対する彼なりの答えだと思います。
そこでは、法が秩序として機能していますよね。

この議論を少しだけ発展させます。
社会をより望ましい状態にしていくには、おそらく2通りの方法があります。

一つは、法による締め付けを強化すること(秩序=法)。
人のものを盗んだら死刑!なんて言えば、窃盗はおろか犯罪は一つも起きなくなるでしょう。
これは罰を恐れる人間の恐怖心を利用して従わせる方法ですね。
即効性が高い一方、締め付けられる側の不満も大きくなりがちです。

もう一つは、倫理の定着を図ると。特に宗教が顕著です(秩序=倫理)。
仏教を例に出しましょう。仏教には前世・現世・来世という概念があり、現世でおかれた状況は前世での行いによると説明されます。
これは大変良くできていて、現世における不満を社会から前世に逸らし、来世のために現世で善行(人に慈悲を与えましょう、とかその手のいろいろな釈迦の教え)を積ませるという、究極の秩序生産マシーンになっているわけです。

キリスト教・ユダヤ教・イスラム教なんかも同じですよね。
いずれにも、生前の行いで天国行きか地獄行きかが決まる最後の審判という概念があり、そのために現世での善行を促します。

わかりやすいので宗教を例に出しましたが、『己の欲せざるところ、人に施すことなかれ』のような、人口に膾炙した儒家の教えも倫理ですよね。

これらは人間の内側(=心の中)に働きかけ、自らの意思で秩序を守らせるという特徴があります。
敬虔な信者さんを見るとわかりやすいように、一度倫理が定着するとその威力は絶大で、かつ本人に不満が少ないというのが恐ろしいところです。一方で時間がかかるというデメリットがあります

 

これで、『ダークナイト』を解説する材料は調いました。

バットマンとハービー・デントの役割

まず、バットマンシリーズは

主人公のブルース・ウェイン(バットマンの本名)が、親を殺されたという経験から
大切な人を失わなくてよい社会の創造を目指して悪を裁く

というストーリーになります。

ノーラン監督のバットマン三部作は、おそらく『秩序』をテーマに据えています。
第1作の『バットマン・ビギンズ』では、悪を私的に裁くことを通して、乱れていたゴッサムシティ(映画の舞台)に秩序を取り戻したバットマンが描かれます。

『ダークナイト』でもその設定は引き継がれ、正義の検事であるハービー・デントという人物が新登場します。
デントは極めて高潔で倫理観が高く、正義のシンボルとしてゴッサムシティに受け入れられます

この設定はまさに、先ほど解説した『より高次元の秩序を作るには』という話に通じます。
バットマンは私刑という恐怖を通じて町から犯罪を消す役割を、デントは倫理観を市民に植え付け、市民が自らを律することで街から犯罪を消す役割を担います。
ここでいう犯罪とは、『社会で正しいとされている価値観にそぐわないもの』と捉えてください。

作中にはバットマン本人の『この町にはデントがいればいい』という趣旨の発言が出てきます。
前述したように、恐怖による秩序は短期的に絶大な効力を発揮する一方、人々の不満が鬱積しやすい。
鬱積した不満は、チャンスがあればいつでも爆発する爆弾です。
だからこそ、人々が秩序を守る理由を恐怖から倫理へと移行する必要があるのです。

『ダークナイト』は、恐怖による秩序から倫理による秩序への移行の過渡期を舞台にしているのです。

※ここまで読まれた方はお分かりかと思いますが、『ダークナイト』は、秩序を創る側から見た秩序という側面が強いと思います。

 

秩序とは果たして正しいのだろうか

ここで、ホッブズの議論をおさらいします。
ホッブズの議論において、人は本来自己保存のための利己的な生き物です。
人々が暴力などの利己的行動を放棄して法の支配を受け入れるのは、
自分の身を安全に保つため
法の支配によって生まれた信頼を利用し、経済活動に携わって生活を豊かにするため

でした。

ホッブズは、はなから人間の善性などを信じてはいません。人間が法の支配を受け入れるのは、自身にメリットがあるからだと考えている

先ほど話した『恐怖と倫理』の話も絡めますね。
法に従う理由がメリットと罰に対する恐怖なら、メリットがなくなったり、罰への恐怖にまさる恐怖を前にすれば人間はいつでも法を捨てて暴れだすということです。
秩序を保ちたい側からすれば、こんなに恐ろしいことはない。

そこで人々に倫理を植え付け、『これはしてはいけない行為だ、だからやめよう』という、メリットや恐怖ではなく個人の心の在り方で秩序を守らせる方向に移行するのです。

これって、結構我々の感覚に適合していると思いませんか。
罪を犯すのは人間として許されないという倫理と、社会的信用を失ってしまうという打算(信用の喪失=コミュニティからの排斥や経済活動の制限)、罰への恐怖。
この三つが絡まりあって、大多数の人間は秩序を守っているように思います。

では、この倫理なるものはいったい何者なのでしょうか。

多くの人は、生まれた時から社会に倫理を植え付けられて育ちます。
『人を殺してはいけない』『人の嫌がることをしてはいけない』『思いやりを持ちましょう』etc

では、果たしてこれらの倫理は正しいのでしょうか。

当たり前に思えて、これらが正しいと証明できる人はいないと思います。

人間は呼吸をしなければ死んでしまう。
これは人間の所与の性質ですね。人間の側からは変えようがない真理だと言えます。
一方で、殺人やその他犯罪を犯し、倫理を犯す人は山ほどいます。
状況によっては人間は倫理を捨てられるのです。倫理は変えようがない真理ではない
歴史を見れば、善や美徳とされてきたことは時代によって全然違いますしね。

すなわち、倫理は現状大多数の人間が正しいと思い込んでいるから暫定的に正しいとされているだけです。
いわば嘘ですね。

ジョーカーの役割

前章で説明したのは、まさにジョーカーの価値観です。
すなわち、
人間が法に従うのはメリットと罰への恐怖があるからであり、倫理は嘘っぱちにすぎない。人間はメリットがなくなったり罰の恐怖を上回る恐怖を前にしたら、法も倫理も捨てて本来の自然権を振りかざす利己的な生き物に戻るだろう?
という価値観に基づいて彼は行動している。

ジョーカーの行動は一貫していて、それは
自分が不利益から逃れようとすれば他人に不利益が生じる
という状況に人を追い込むというものです。

ジョーカーは

バットマンが正体を現さなければ人を殺す
相手の船の起爆スイッチを押せば自分の船は助かる

こんな状況にバットマンやゴッサム市民を陥れて、法に従い自分には倫理が備わっていると思い込んでいる人々が
利己的な本性をさらけ出す様子を楽しもうと考えている
のです。

バットマンやデントが倫理による秩序の安定という方向で動くのに対し

ジョーカーは倫理なぞ嘘っぱちにすぎないと見せつけているのですね。

社会に必要な悪

これがおそらくダークナイトの大きなテーマの一つです。

本作では、バットマン、警部、デントの3人が一丸となってヴィラン(本作ではジョーカー)に立ち向かいますが、
潔白を貫いて生きてきたデントは闇落ちし、最後には命を落とします
バットマンはそもそも私刑の執行人ですし、本作ではジョーカー追跡のために違法どころではない盗聴を行いました。
警部も捜査のためにマフィアと内通していたというセリフがあります。
つまり、この二人は秩序を守るために秩序を犯しているのです。

一方で、デントには後ろ暗いところは一つとしてなかった。
しかし彼だけが闇落ちし、命を落とすことになる。

この展開にノーラン監督が込めた意図は、

社会の中で正しいとされていること(倫理)は、いわば大多数の人間が信じているだけの嘘である
嘘であるからこそ、それを貫こうとするといつか矛盾が生じてぼろが出る

ということだと思います。

その後、バットマンと警部はデントの闇落ちを隠蔽し、デントを光の騎士として祀り上げます。
先ほど述べたような、人々に倫理を植え付ける旗印にしたのですね。
その一方で、バットマンはデントが犯した罪をすべて被ることになります。

秩序の根幹にある価値観は所詮嘘にすぎないので、
それを貫こうとすれば絶対にどこかにぼろが出ます。
だからこそ、秩序を保とうとするなら、時には秩序から外れた汚い行為もしなくてはならない
しかし、そのぼろや汚い手段はどうあっても隠し通さなくてはならない。

秩序の根幹にある価値観をさも清く正しいかのように演出しなければ、多くの人は倫理を受け入れてくれないからです。

逆に言えば、社会には秩序と倫理を正しく見せるための必要悪というものが存在するのですね。
バットマンは、ダークナイト(闇の騎士)として社会の必要悪になったのです。

あとがき

お疲れさまでした。
これでも若干削ったのですが、結構なボリュームになってしまいましたね……まさかの5000字。

この『ダークナイト』は、秩序を創る側と、その秩序をある意味盲目的に信じている市民という対比が作品の根底にあるような気がしています。バットマン、デント、ジョーカーはいずれも市民をどのように誘導するかで争っていますし。
『ジョーカー』や『ダークナイト ライジング』では若干視点が変わり、秩序云々に関する新しい結論にたどり着きます。

『ジョーカー』は絶対に扱いたい作品なのでそのうちやります。
『ダークナイト ライジング』は需要があればやります。コメント、リプライ、DMいつでもくださいね笑

ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました!