映画鑑賞

【映画脚本考察】JOKER

こんにちは!たかやんです!

今週もどこに需要があるのかわからない映画脚本考察シリーズいきます!笑
第2回は前回のテーマを引き継いで

JOKER

になります!
これは見たことある人も多いはず。テーマは『ダークナイト』と似ているので前回を読んでいただきたいところですが、一応これだけでも読めるように書くつもりです!
今回もネタバレ配慮一切ないので、未視聴の方はUNEXTなどでご覧になってください。

一応貼っておくので気が向いたらどうぞ
『ダークナイト』⇒【映画脚本考察】ダークナイト

秩序とはなんぞや(ダークナイトのダイジェスト)

・トマス・ホッブズによる社会の考察

『リヴァイアサン』で有名なホッブズは、人間が法を守る理由について考察しました。
人間は本来、自己保存を求める利己的な生き物だというところから彼の議論は出発します。
自分が生き残るために暴力で人の食料や土地を奪ったり。この状態を万民闘争と彼は呼びました。

しかし、これではいつまでも人々の心に平穏は訪れないし、人を信用できないから取引(経済活動)をして生活を豊かにすることもできない。
そこで、人は法を作り、法に従うことで社会を作ったのです。
法とは『〇〇という行為をすれば罰を与える』という形式、つまり罰を抑止力にして特定の行為を禁止するシステムです。
罰を担保にして、『きっと法に従う人はこの行為をしないだろう』という信頼を作ります。
例えば、すれ違ったおじさんが自分のことを殴ってくるかもという心配をしなくていいのは、そのおじさんが『法に従って生きている』という思い込みがあるからです。
法には、このように見ず知らずの人の間に『この人は自分を害してこないだろう』という暗黙の信頼を作り出す機能があります。
そうしてできた暗黙の信頼の上に、我々は殺されるかもという不安を極力抱えず生活し、経済活動を行って生活を豊かにできているのですね。

秩序とは、『望ましい状態を保つためのきまりごと』という意味です。
ホッブズは、利己的なふるまいが少なく他人と経済活動を行える社会の状態は、法という秩序によって保たれていると考えたわけですね。

・秩序を安定させるには

しかしホッブズに従えば、人が法を守るのは
・自分の身を安全にするため
・罰を受けないようにするため
・経済活動に従事して生活を豊かにするため
でした。つまり、罰よりも恐ろしいものを前にしたり、経済活動に携われない(法に従うメリットがない)となったら、人間はいつでも法を捨てて暴れだす可能性がある。

法を守ってほしい側からすれば、これはとんでもないことですね。
ちなみに、この法を守ってほしい側というのは、法の支配の中で行われる経済活動で得をしている人たち、詰まるところ社会の上流階級たちですね。
だから、罰やメリットがあるから法に従うではなく、人間として守らなくてはいけないから従うという風に人間の認識を改める必要があります。人間に倫理を植え付ける必要があるということです。
人間として罪を犯すのは許されない(倫理)、罰を受けるのも嫌(恐怖)、社会的な信頼を失くすと困る(打算)。
倫理と恐怖と打算の割合は人それぞれでしょうが、これらの要素が合わさって、我々は法を犯すことを踏みとどまっているように感じます。

・ところで倫理って何ぞや

ところでこの倫理というもの。
『人を殺してはいけない』とか『人のものを奪ってはいけない』とかいろいろありますが、これが正しいと証明できる人がいるのでしょうか。
世界各地、各時代にあるあらゆる文化で、善とされてきたことや倫理的とされてきたことは違います。
倫理に定まった形はない。単純に、その時代のその社会で『この考え方は正しい』と多くの人が思い込んでいるから倫理は正しいとされているのです。倫理は一つの考え方にすぎず、少なくとも真理ではないのです。

倫理観の高い青年がおかれた日常

お疲れさまでした。やっとこさ『JOKER』に入れそうです。

『JOKER』の主人公アーサーは、とても倫理観のたかい青年です。
『あなたの笑顔が、人に幸せと喜びの輪を広げるのよ』という母ペニーの教えを愚直に信じて生きてきた、いわゆる善人です。

しかしアーサーの日常は悲惨そのもの。
映画をご覧になった方はわかるかと思いますが、
・薬を七つ常用しており、定期的に市の福祉課で面談
・笑いの発作が頻発
・精神疾患(おそらく自己愛パーソナリティ障害、きわめて強い妄想癖など)を患っており、精神病棟に入れられたことがある
のような数多くのハンデを背負い、まともに就職できていないのです。
また、序盤ではストリートボーイズたちからかなりひどいリンチをされるシーンがあります。

先ほどのホッブズ的人間観に従えば、アーサーが法を守る理由ってなにもないんですよ。
法を守っても経済活動には携われないし、リンチされて身の危険を感じているし(法を守るメリットなし)。
それでも蛮行に出ず、やり返しもしないのはひとえに彼が倫理的な青年だからです。

あまりにも酷い目に合ったアーサーが裏路地でごみを蹴り飛ばしているシーンが何度かあります。
これこそ、アーサーの本音なんですよ。倫理的に生きて法を守っているのに、なぜ自分がこんな目に合うのか。自分を虐げる奴らにやり返してやりたい。でも人に暴力はいけない(倫理)からものにあたって済ましている。

一番最初の、鏡を見ながらメイクして笑うシーン。
あの鏡の中で泣いているアーサーは、倫理を守って生きることにつかれたアーサー(倫理を守って生きてもいいことがない、解放されたい)。
手を口角に当てて無理やり笑っているのは、母の教えを守って本音をおさえて倫理的に生きようとするアーサー。

『JOKER』は、アーサーが倫理から解放される過程を描きます。

解放のダンス

アーサーは、地下鉄でリンチを受けます。
その時、事故的に人を撃ち殺してしまうのです(積み重なった鬱憤が爆発して衝動的に殺してしまったという解釈もできます)。

中盤の精神病院のシーンでは、『この前人にひどいことしたけど全然悩まなかったよ』というセリフがあります。
人を殺すことは間違いなく倫理的には悪。しかし、アーサーは倫理的な呵責を受けるどころか解放感があったのです。
今までどれだけ腹に据えかねることがあっても我慢して倫理を大事に生きてきたけど、復讐するってこんなにすっきりするのか、倫理って嘘だったんだな、と。

その後、アーサーは鏡の前で踊ります。『JOKER』における鏡は先ほど述べたように、倫理からの解放を願う心を映すものです。
鏡の前でされたダンスは、倫理からの解放のダンスなのです。
しかし、後ほど解説しますが、これはまだ解放の第一段階です。

次にアーサーが鏡の前で解放のダンスを踊るのは、母ペニーを殺した後のことです。
アーサーにとっての倫理とは、ペニーからの教育のたまものでした。
そのペニーを殺すということはアーサーと倫理の完全な決別。倫理からの完全解放を意味します。
ペニー殺害後、今までカーテンで閉め切られ薄暗かった部屋が一気に明るくなります。
これもアーサーの心の解放を演出しています。

以降のアーサーは、自分を虐げたものに復讐することにためらいがなくなるのです。

人間が倫理の内側にとどまるための条件

先ほど述べた、倫理からの解放の第一段階と完全解放の違いを説明します。

まず解放の第一段階において、アーサーは今まで信じていた倫理が嘘だと気づきます。
しかし、倫理が嘘だとてそれを積極的に破ろうとはしていないのですね。
それは、アーサーにはまだ母を愛する心が残っていたからです(救急車で運ばれた母を心配するシーン)。

倫理は確かに嘘ですが、倫理の虚構を暴き世間が倫理を捨ててしまったなら、真っ先に割を食うのは子供や特に老人でしょう。
一人では何も生産できず生きていくこともままならない人(役に立たない人)は、倫理のない世界(損得と合理性で動く社会)では見捨てられます。
社会が
・自分が他者からの暴力におびえないため
・経済活動に参加して恩恵を得るため
に作られた共同体だとしたら、倫理を抜きにすれば腕っぷしが弱く生産活動にも携われない人を助ける理由はないですからね。
たとえ倫理が虚構でも、(子供や老人に限らずとも)自分の愛する人が安全に生きていくうえで倫理は必要なのです。
倫理は、自分のためではなく、人を守るためのものとして存在理由があるのです。

余談になりますが、『ダークナイト』のデントが闇落ちした理由もここにあります。
デントはレイチェルという恋人を失いますが、愛する人を失った人間に倫理は無意味なんですね。

その後、アーサーは自分がペニーの養子であること、虐待を黙認されていたことを知ります。
自分は母から愛されていなかったと知ったとき、アーサーに倫理を守る理由がなくなったのです。
これが倫理からの完全解放です。

『JOKER』が提起する社会問題

『JOKER』から考察できることは二つあって、
・経済活動も満足に行えず、社会から保護を与えられていない人間が法(秩序)を守る理由は倫理である
・倫理はあくまで虚構であり、虚構であると知りつつ倫理を持ち続けるには大切な人がいることが絶対条件
ということです。

昨今の社会では、人間関係の希薄化が問題になっています。
僕が個人的に尊敬している社会学者は、
・最近の若者は、リアルな人間関係において、他人から引かれることを恐れて自分の本当に好きなものの話ができない
・インターネットを介した人間関係は、自分の一部分(ゲームが好き、スポーツが好きetc)だけでつながる傾向が強く、『自分のすべてを受け入れてくれる人間関係』にはなりずらい
などの点を指摘しています。
家族関係においては、『親ガチャ』という言葉が人口に膾炙しているのはいい例ですね。親を大事に思っていたら出てくる言葉ではないんですよ。

全員が全員ではないでしょうが、人間関係の脆弱化が進んでいるのは間違いない
それはすなわち、人間を倫理の内側にとどめるくびきが脆弱化していることと同義です。
ここ数十年のトレンドである『無敵の人』が出現する背景にこれがあると思います。

また、昨今の社会、特にアメリカ社会では福祉の縮小が問題になっていますよね。
本作の中でも、市が福祉予算を打ち切ったという話の展開がありました。

この映画は、タイトルを『JOKER』と言います。
JOKER(宮廷道化師)は、中世の宮廷において道化を演じる人間であったと同時に、諸貴族らを批判する役目を負っていたといいます。
この映画におけるJOKERは、諸貴族(すなわち今の社会で秩序を創っている金持ち)に対して批判をしています。

人間の持つ倫理観を過信して、福祉を縮小するような弱者を虐げる政治ばかり行っていると、
希薄化した人間関係から倫理を捨てたものが現れて秩序を破壊してもおかしくないぞ

という警告をはらんでいるのです。

これは岡田斗司夫さんが指摘なさっていたことですが、街中にJOKERの仮面をつけたものがあふれるシーンがありますよね。
例えば、この電車のシーン。誰一人会話をしていないんですよ。

JOKERになりうるのは、体が弱いものでもハンデを背負ったものでもなく、濃密な人間関係を築けないものだということです。

あとがき

お疲れさまでした。

ダークナイトのダイジェスト作戦で文字数を削減したつもりが、本編解説だけでもまぁまぁな分量になってしまいました。
僕はありがたいことに家族と友人に恵まれたのでJOKERにはなりませんでしたが、体質問題が今より重篤だったころは明日は我が身だったというか……(汗)

次回の映画脚本考察は、倫理観の過信というテーマつながりで『promising young woman』をやるか、貧困層が生きる苦難というつながりで『パラサイト』をやるか迷っています。

読んでくれた方いたらTwitterででも何かメッセージくれるとうれしいな……笑

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!